槇原敬之さん|「軒下のモンスター」|好きになる相手がみんなと僕は違うんだ

音楽紹介

最初から不幸な恋をしたいと思っている人は、この世にいるのだろうか。結果としてつらいに恋なったとしても、きっと誰かを好きになったその瞬間は、老若男女誰しも、幸せな恋心を、その胸に抱いているのではないだろうか。


初めから「うまくいきそうにない」恋だとわかっていること

昨今、巷では不倫だとか不貞だとかそうした話が溢れている。けれど、一時的な感情だとか、人生のスパイス的に、私は大事な人を傷つける行為は、自分の心が許せない。

なので、結婚しても恋愛は自由だと言っている人とは、どう頑張っても身近な存在としては、価値観の共有ができないと思う。

ただ、そうした人が同じ世の中にいることは特に否定しない。

不倫だろうが不貞だろうが、それを行うことは、その人の人生の自由だ。

だから、私に関わってこない限りは別に不倫を楽しむ人や、そうした行為を誇る人に対して「そんなことやめなよ!」と言う気はさらさらない。

ご勝手に、というのが正直な気持ち。

さて、今回取り上げているのは、そうした、伴侶のいる人との「最初からうまくいきそうにない恋」とかではない。

そうした恋ではないのに、この世には、最初からヒリヒリした気持ちにしかなれなかったり、幸せな気持ちだけを抱けるわけではない、そんな恋があると、「軒下のモンスター」を聴いていて、深く考えさせられた。

恋心を抑え込まなければいけない状況

軒下のモンスターは、2011年に発売された槇原敬之さんの「Heart to Heart」に収められている曲。

おそらくは同性愛である10代後半~20代中頃の男性のことを綴った曲だろうと思う。

曲の主人公は、きっと長く、自分の恋愛感情だとか、同性・異性に感じる気持ちを、狭い田舎の社会の中で持て余していたんだろうな、と想像できる。

そんな、彼の暮らす田舎に、ある日、都会的すぎる男性がやってくる。

そして、新しく出会った彼の存在によって、主人公は「その時ずっと解けずにいた/謎の答えが分かった/好きになる相手がみんなと/僕は違うんだと」気づく。

Heart to Heart

思春期、多くの人が「○○くんのことが好き」とか「△△さんが好き」なんて話をして盛り上がっていられる時期に、人間のとっても根幹的な感情である恋する気持ちを、誰にも言えないつらさというのは、私には想像して余りある気がした。

ただ、自分自身が自分の恋愛感情だとか、誰かを好きとかいう気持ちを、周囲に正直に言えるタイプではなかったこと、それに加えて、育った家庭環境も、あまりそうした「恋愛感情に関すること」を素直に言える環境ではなかったために、この曲に意外にもジン、と共鳴した。

自分自身はセクシャルマイノリティーではなかったために、曲の主人公と同じ気持ちを、本当の意味で共感できてはいない。

けれど、オープンにできない感情を持っている、というの苦しい心の沼に、トプン、と沈む感覚にデジャヴを覚えた。

本当に叫びたい思いを押し殺している日常

「軒下のモンスター」の主人公は、男性だけれど、男性を好きになり、その「同性に恋愛感情をもつ」ということが、日常として受け入れられない社会に生きている。

もし、これが好きになった相手が、同性だろうと異性だろうと「愛する・恋する」という気持ちは尊いものだという社会なら、彼は何も悩むことはなかったかもしれない。

けれど、彼の暮らす狭い田舎の社会は「普通に結婚して/子供を何人か授かって/それ以外は幸せとは/誰も信じないような/そんな街」だ。

だから、彼は自分が周囲の多くの人と異なる、異質であることをひた隠していなければいけない。

遊びのための不倫でもなければ不貞でもない、ただ純粋に抱いた思いを、彼は「自分の生きる社会が許さない」という理由だけで、抑える必要があった。

これって、恋愛感情だけじゃなくて、実はそれなりの数の人が、抱いたことがある思いと共通しないのだろうか、と私は思った。

私の場合は、生まれ育った家族を、家族として機能させていくために、自分の気持ちや希望をかなりの部分で押さえつけていた時期がある。

それは10歳くらいから19歳くらいまでの間で、自分が本当に言いたいことは、100分の1も言ってなかった気がする。

自分に子どもがいる現在では、同じような思いを、自分の子どもにさせたいとは微塵も思えない。

ちょうど思春期に当たる時期に、自分の素直な感情を抑え込んでいた時間があった自分には、軒下のモンスターの言うところの「ばれないように心の口を/必死に塞いでいる」という気持ちについ、共鳴してしまう。

私も、本当の自分の気持ちのために「親を泣かせることも/自分に噓をつくのも嫌なんだ」という葛藤にさいなまれていた。

私に関しては、オープンにできないものは、恋愛についてのことではなかったけれど、それでも、狭い田舎の中で、すでにできている「自分に対する周囲のイメージ」と「親が求める正しさ」は、自分の自由な気持ちを抑えつけるには十分なものだった。

社会にはどこにでもあるじゃないか

今を生きている人の中で、きっと自分の気持ちに100%素直で自由な人というのは、本当に限られた人なのだろうと思う。

だからこそ、実は軒下のモンスターは、セクシャルマイノリティーの人の恋愛ということだけでなく、本当はもっとたくさんの人に共感できる曲だと思う。

男性は「男だから・男なのに」などの縛りが、社会にまだまだ多くて、そうした縛りに男性自身ががんじがらめになっていることがきっとある。

女性は「女性でしょ・女性なのに」については、時代が進むにしたがって、すこーしずつ軽減してきた部分もあるけれど、それでも世にいう「ガラスの天井」的なものは、いたるところにある(天井でなくても壁や囲いや鎖……などなど)。

そして、この世に生きる人は誰しも同じ人がいないとなれば、誰だって超マイノリティーな部分を持ち合わせている。

傾向として、多くの人が「そうである」というだけのこと(例えば多くの人は異性を好きになるということ)でも、突き詰めていけば、誰しもたった一人しかいないマイノリティーな部分があるのだ。

そして、誰しも、色々な兼ね合いの中で、自分の心だけに抱えていく思いがあるのだ。そう、誰しも「ばれないように/心の口を/必死に塞いでいる」瞬間があるはず。

この曲は、表面的にはセクシャルマイノリティーの男性が、自分の中に降り積もる恋愛感情のアリ地獄に、自分の中でもがき苦しんでいる様子を描いているように見える。

けれど、恋愛感情だけに限らなければ、きっと多くの人が、自分の内部にある膿んだ感情のアリ地獄に、ふとしたきっかけで足をとられる可能性があることをうたっている気がする。

一人ひとりの中にある、たった一つのマイノリティ。それが誰かをむやみに傷つけるものでないのなら、表現しても、お互いに、それぞれが尊んでいられる、そんな人間関係をつくっていきたいと、この曲を聴いていると、深いところでそう思う。

だから、軒下のモンスターには、同じ槇原敬之さんの「桃」から引用したフレーズを添えて、今回は終わろうと思う。

「今までどんなに知りたくても/知ることのできなかったことを/一つ一つ諦めずに/僕は君と/知っていく」

軒下のモンスター

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