故意の恋

2016年、今年は年初から芸能関係の話題が多かったですね。中でも話題が事欠かなかったのはスキャンダル系の話題でした。いつもは芸能ネタにも色恋ネタにも疎い私ですが、これだけの巷間を賑わせたということで、今回は道ならぬ?恋について独断の分析をします。


どうして恋は「落ちる」というのだろう

恋については「落ちる」という言い方をするのが常です。まぁ自分の経験を振り返ってみても、恋というか人を好きになる瞬間は自分ではコントロールできないので、眠りに落ちるのと同様に、恋も「落ちる」のが妥当な言葉なのかもしれません。でもこの言い回し、私は小学生の頃くらいからとても不思議に思っていました。

自分を上げてくれる恋

中学生の頃、どちらかと言わなくてもモブキャラ系の私は、世にいうリア充な人たちとはほぼ関わることなく生きている人間でした。それでも友人の中には「異性と付き合っている」という子もいて、話を聞くことはありました。けれどはっきり言ってピンとこなかったんですよね~(笑)好きな人がいる気持ちはわからなくもなかったんだけれど、付き合うとか別れるとか、彼が連絡をなかなかくれないとか、別の女の子と話しててモヤモヤするとか自分にとっては「めんどくさー」としか思えなかったんですねぇ、

当時。しかも私は歴オタのようなものだったので、現実の周囲にいる男の子より、古墳から出土した埴輪に萌えていたり、幕末志士の使った刀剣に萌えていたり、はたまた戦国武将の家紋に萌えていたりしましたから……。ただ、振り返ると思春期に自分の胸をときめかせてくれて、何よりドキドキわくわくさせてくれてたこうした日本史への興味は、恋そのものだった気がしたのです。当時の私は、周囲の男の子に恋することはなかったけれど、日本史や(漢文や生物といった)興味ある勉強分野に対しては確実に恋に似た感情を持っていたと思いました。このことは「人間は人間に対してだけ恋するのではない」という確信に繋がりました。

中学生だった当時、とても苦手だった体育担当の教員が、学年朝礼の際に「中学生の恋愛なんて堕落していくだけだ」という驚くような発言をしていたのは今でも鮮明に覚えています。当時は「何言ってんのこの人」くらいの言葉にしかならなかったものですが、今なら言えます。恋は「落ちる」ものだけど、「自分を引き上げてくれる恋はある」と。私は中学生だった当時、異性との恋愛で自分をレベルアップさせられる経験はありませんでした。でも自分の心がコントロールできないくらいワクワクして、周囲の反応が気にならなくなるくらい好きになるという経験は、日本史に対してもち、この日本史への恋は、確実に私を引き上げてくれました。

自分を大切にできているのか

さて、歴オタの私は、その後いくつかの「対人間」での恋愛経験も踏むわけですが、運が良いのかどうなのか、自分をとことん傷めつけるような恋愛をすることはありませんでした。いずれの恋愛も最終的には自分を引き上げてくれたと思えます。そしてこれも運が良いと言っていいのか、不倫とかになることはありませんでした。

結局世の中で言うところの「間違った恋」にのめりこんでしまうかどうかって「自分を大切にできるかどうか」にかかっている気がします。これは両親に愛されて育ったかどうかとかそういうものに因るのではなくて、純粋に自分自身の問題として、です。恋をすると冷静さを失うことも、盲目になることも、周囲の言葉が届かないことも、よくわかります。それでも、気づきたくなくても、恋においてイーブンな立ち位置がとれないならそれっておかしい、と自分を大切にできているかという視点で見てもらいたいなと思うのです。

卑怯な言い訳

伴侶をもちつつ、伴侶以外の人と恋愛をするのは、パートナーとの間にお互いの了承があるなら、外部の人間が四の五の言うことはありません。しかし、そうした了承がないのであれば、それはイーブンではないです。これはもちろん、伴侶に内緒で外に恋人があれば、伴侶を傷つけますし、不義の恋人にも大変失礼な話です。

よく聞きますよね、「伴侶とは別れるつもりだから」とか「別れようと思ってる」ってセリフ。いや、本当に恋人を大事に思っているなら先ず伴侶との関係と契約を清算してから来い、という感じですし、伴侶に対しても誠実さが皆無です。こんなセリフを吐くような既婚者とは、よもや前の伴侶と別れて一緒になっても次は自分が同じ目に遭うだけです。こんな卑怯な人と付き合っても、自分を大切にできるわけなんてないのです。

結婚は現状のこの国においては人間関係における公的な契約です。こんな基本的な契約すら履行できない人間に、人間関係における他の何が守れるというか甚だ不思議です。離婚もせずに独身者に言い寄る既婚者なんて、契約履行能力について自分から「私は借金踏み倒しても気にしないようなルーズで無能な人間です」と言っているようにしか見えません。

なぜ不倫にはまるのか?

不倫にはまる理由なんて人それぞれだと思います。でも私が今年の芸能ゴシップを見ていて思うのは、この人たちは自分の心が思いっきり成長する時期に、自分を引き上げてくれる恋をしなかったんじゃないのか、ということでした。もし思春期のような自分の心身が著しく成長する時期に、異性でも同性でも勉強でもスポーツでも、とにかく何に対してでもいいから、本気で自分を引き上げてくれるような恋をしていたら、不倫になんてはまらないんじゃないかと、そう思えたのです。だって恋が「自分を軽んじる・軽んじられる」ものではないと体得する経験があったら、敢えて自分を貶めるような恋にはまるなんて考えられないから。

恋に落ちるのは偶然で、突然で、不意の出来事だったとしても、その恋を続けるかどうかはその人次第。もしその恋を相手も込みで続けるにあたり、自分自身を傷つけるかどうかを見極める能力は、実際には思春期くらいの経験によって育てられていると感じます。恋愛を楽しむだけのもの、高揚感を味わうだけのもの、刹那的な快楽だけを感じられればいいもの、として経験してくると、結局は大人になっても自分を本当の意味で高められる恋愛には出会えないと思ったのです。

故意の恋

私は不倫って「故意」の恋だと思っています。始まりは他の恋愛と変わらない突然の気持ちの高鳴りであっても、明らかに傷つける人がいるとわかった場合、その恋はコントロール不能な「恋に落ちる」的なものではなく、故意に続けている恋になるのだろうと。自然に育つ恋でなく、「自分の方が」とか「恋人の伴侶に勝っている」とか思うような時点で、それは自分を引き上げてくれる恋にはなり得ません。本当に自分の心をまっすぐに引き上げられる恋でなく、故意に続けているような恋であれば、どうか本当は「大事にされたい」と言っている自分自身の心に寄り添ってみてもらいたな、と思ったのでした。


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