ノスタルジー

私は田舎育ちなので、夏休みとか夏と言うと、田んぼを渡る風と、その風が運ぶ青い稲の香りの印象が強い。そして夕暮れのにおい。これは夕暮れ時にいずこからのびてくる夕飯の準備のにおいとかではなくて、純粋に「夕暮れの」においのこと。沈みかけの夕日の周りの橙、空に広がる紫と薄い水色のグラデーション。太陽の向かいに、早々とやってきている群青の夜の始まり。こうした光景が子どもの私にとっての夏の情景。


この風景の中を歩くのは、子どもの頃の自分と姉弟たちと、母と当時の飼い犬。日々の何でもない光景が、私の中の原風景に近いものになっている。

母は当時、私たち子どもに「大人になったらこうやってみんなで夕方に散歩に行ったなぁと憶い出す日がくるんだろうね」と言っていた。当時の私には「その日」が来ることは想像できても実感はともなっていなかった。もちろんのことだけど。

そして今夏、娘が幼稚園に通い始めたことで、私たち家族にとっても初めての「子どもの夏休み」が始まった。幼稚園がないことでツマラナイと呟く娘だったけれど、日々をそれなりに楽しんでいるよう。

そんな娘との夏休み。玄関先に置かれた「持ち帰り」の朝顔や、早朝のラジオ体操、取り込んだ洗濯物を一緒にたたむ時間、そして幼稚園に通い始めたことでなくなっていた「平日に出歩く時間」を過ごす中で、急に自分が子どもの頃の夏休みを切ないくらいに憶い出した。

そして、自分には自分自身が子どもとして過ごす夏休みがもう絶対に来ないのだと、痛切に実感した。自分が親という立場になったことで、やっと私は当時の母の言葉を血肉として感じることができたのだった。

既定路線でいけばこれから学生生活を終えるまで「当たり前のように来る」夏休み。娘はどんな記憶を刻んでいくのだろう。そしてその記憶の中に、親の姿はどんな風に遺るのだろう。焼けたアスファルトを踏みながら坂道をたどって図書館に行く風景を、山に囲まれた公園の朝に鳥とセミの時雨を聞きながらラジオ体操に行った風景を、彼女は覚えているのだろうか。

娘と一緒に過ごすことができる夏休みは、親の自分自身にとっても限られた回数しかない。べったりと一緒に過ごす毎日の中で、イライラすることも叱ることもケンカすることもある。けれどたった一瞬でも、娘や息子と過ごしていく夏の時間が、彼らにとって楽しい夏の時間になるように、少ししかできないかもしれないけど、努力だけはしたい。

大人になったらこの風景を憶い出すよ、と言って大事に思える風景や記憶を、彼らの中に1枚でも遺せたら、自分はそれだけで多分、十分なんだと今はそう思う。


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