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世の中には、育児は愛で溢れていて、子どもの笑顔は最高の癒しで、育児に関わる時間は人生で最も貴重で重要な仕事だという、ある種の宗教のような世界がある。

 

もちろん、子どもは可愛く思える(こともある)し、育児の中にキラリとする瞬間をとらえることもある。けれどそれは24時間ずっとではないし、私の様にひねくれている人間からすると、育児が自分の人生にとっての至上命題で唯一無二の最も重要な仕事かどうかはまだわからない。


子どもはいつまでもその場所にいない

 

私は、正直に言えば、キラッキラの「育児って楽しい♪素晴らしい♪」を推してこられる事には辟易している部分もある。私にとっての育児は、あくまでも「これから自立・自律していく人」と、より良好な人間関係を築くための日々、であるからだ。

 

子どもは育つ。これは通常のお世話をしていれば、何をしなくても、子どもは物理的に育っていく、ということだ。ただ、この育つ過程において、社会での過ごし方を彼らに教えたり、彼らが自立・自律するために必要なスキルを身に着けさせることは、彼らをこの世に送り出した者の役目として当然必要だ。

 

ただ子どもの必要なお世話だって、新生児に必要なお世話と、1歳児に必要なお世話は違うし、彼らはいつまでも同じ場所に留まってはいない。いつまでも「その瞬間の」子どもであることは、成長過程の彼らにはあり得ないことだ。

 

このことが、育児に対してかなりクールな態度の自分を、何度も救ってきた。必要な時には(1日中でも抱っこ紐で)抱き続けることもあったけれど、このことに耐えられたのも「こうした瞬間は永遠ではない」と私が割り切っていたからだ。

 

ただ、第1子の時は、初めての育児ではあったけれど、子ども自身が病気が少なく、寝にくい子でもお乳を飲みづらい子でもなかったので、理性の内でやり過ごせたことが多いのだと思う。

 

一方で第2子は、なかなか接し方として難しい場面があり、寝ないことがあり、食べないことがあり、ぐずることも多く、精神的にはかなりまいった。それでも、第1子がいて「2年も経てば、この子のようにできることが増えるんだよなぁ」という未来のモデルがあったことで、ギリギリ、やり過ごせてきている。

親にも子にも相容れない部分はある

 

それでも、5年ほど育児をしていると、日常の中では「人として受け入れられない」ことが起こることもある。私は、子どものおしめを変えるとか、子どもの調子が悪いという時に、排せつ物や嘔吐物が手につくなどということには、あまり抵抗がなかった。排せつ物に関しては、自分の子どものものなら、全くと言っていいほど、抵抗がなかった。

 

しかし一方で、離乳食期などによくあったのだけれど、子どもが1度口に入れたものを、もったいない気持ちがあっても、自分が食べ直すことはどうしてもできなかった。例えば、子どもが口に入れて出した温野菜のニンジンを、もったいなくても私が食べることは、生理的にどうしてもできなかった。

 

私は、親子だからと言ってすべて受け入れられるわけではないし、逆に子どもに自分のやることすべてが受け入れられるとは到底思えないのだ。

子どもは可愛いよ、でもね

 

自分の子どもなら可愛くて当たり前!というのはよく耳にする言葉だ。私にも子どもに対する可愛いという感情はあるけれど、それは犬や猫の赤ちゃんを見た時に思うような「かわいい~~~」と無責任に思えるものではない。むしろ自分の子どもについて素直に可愛いと思えるのは、写真を見つめている時だったりする。

 

リアルタイムで子どもと対峙している時は、可愛いというよりちゃんとしなきゃという責任感の方が強くなって、可愛いと思える余裕は鳴りを潜めている気がするのだ。自分の子どもは可愛くて当たり前、という部分だけに戻ると、私には、性格も趣味も好みもわからない相手を無条件に可愛いと思え!というのは結構スゴイことだよなぁとも思える。

面白いくらい別の人間なのだ

 

自分が生んだことに間違いはないけれど、10か月間、お腹にいて、色々なことに気を付けながら命を繋ぐことに細心の注意を払ったけれど、子どもは子どもで一個人であり、私とは全く違う人間なのだ。

 

彼らはこれからもっと自我が出て、私とは趣味が水と油なものを好きになるかもしれないし、そうなりそうだったところで、私にはそれを「ダメだ」という権利もない。そうした全く違うけれど、親子というカテゴリーにあるだけで、否が応でもお互いに意識し合うことを義務付けられた関係の中で、できれば人間として、より良い関係を持ちたいと、私は子ども達に対して、そう思っている。

娘と私の趣味は笑うくらい違う

 

実際、5歳になる娘は、自分とは服の好みや、手にするもの、好きになるものの趣味がかなり違う。でも、私の趣味ではないからと言って、彼女の趣味を否定したりするのは何か違う気がする。だから、彼女は彼女で、自分の趣味のものを集めているし、好きになっている。私は私で、自分の趣味の中に、彼女が見せてくれた新しい世界を受け入れる幅をせっせと作っている。

巡り合わせで配置されたチームメンバー

 

全く異なる人間なので、ぶつかることはもちろんあるし、お互いの不条理にイライラしたり、どうにもならないやるせない気持ちになることもある。それでも、異なる人間同士で選択肢もなくピックアップされているメンバーだけれど、できるだけみんなが自分らしさを失わずにいられるように、柔軟なチームでありたいと、今はそう思っている。

家族だって変幻自在というか

 

娘と息子が自立・自律する時に新しいチームを組むための、遠巻きのサポーターにでもなれれば、今はそれでいいかな。親子の関係も、いつまでも彼らを子どもの立場に縛るのは嫌だし、自分をいつまでも母親の役目に置いておくのも嫌だ。私は彼らにとってはいつまで経っても母親であることに違いないけれど、彼らがもっと大きくなったら、お互いに人間として自由でありたいという気持ちは、育児をしている中で、ずっと消えない思いだ。


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