昔々、まだ実家で暮らしていた中高生の頃の話。
我が家は稼業というか父親の職業柄、各部屋にテレビがあるような家だった。
私が中高生の頃というのは1990年代なので、一般家庭で各部屋にテレビがあることは珍しいことではなかったかもしれない。
チャンネル争い
さて私が育った家のように、テレビが何台かあると、親や兄弟・姉妹とチャンネル争いをすることもない……と思われがちでも、実際にはそんなこともなく。
テレビは居間に置いてあるものが家の中では1番大きなテレビだった。
さらに「見たい番組」の放送時間は大体、家族みんなが居間にいるような時間だった。
ということで、我が家でもチャンネル争いや野球シーズンになると見たい番組が見られないというのはよくあった。
で、たまに野球シーズン後の特番で、「警察24時」みたいな番組があるのだけれど……。
この手の番組を見ようとすると、父親はあまち良い顔をしない。
彼曰く「食事時や団らんの時間に、流血があったり怒号があるような番組をわざわざ見たくない」ということだった。
当時の自分はわざわざテレビで争いを見たくないという父親に対して
「日々口を荒らすことがあるクセに何を言っているのだか」
と思っていたりした。
けれど、父親を怒らせたり不機嫌にさせたりするのも面倒くさいので、彼がそういう時には、たとえ「警察24時」が見たくても、チャンネルをそうした番組に合わせることはしなかった。
自分1人ならその番組をみたのか
中高生の時期には単に興味半分で見ていたそうした番組だったけれど、一人暮らしをするようになって、そうした番組を見ることはほとんどなかった。
それはやはり「わざわざ人の負の部分がクローズアップされる場面を見たくない」という感情が働いたからだと思える。
チャンネルは自由に変えられるのだ
今は、テレビをつけても、ネットを見ても、日々痛ましい事件や事故の情報が溢れている。
自分が子どもの頃には、ワイドショーなどで長く取り上げられていたような類の大きな事件が、何だか1週間に1つのペースくらいで起こっていて、「またか」という嘆きが続く。
こうした世の中にあって、私は最近、見たいものだけを見ていたいと、強くそう思うようになった。
逆に言えば、人間は自分が見たい物だけを見られるのではないか、とも思えるようになった。
不幸を見つめたい人は、何かしら不幸にばかり、自分のチャンネルが合っている、合わせている気がしているのだ。
みんな幸せになりたいはずなのに、なぜか幸せではなく、不幸にチャンネルを合わせているのだろう?
ということで、私はそのことから、抜けようと、チャンネルを幸せに合わせることに努めている。
良い気持ちになることに意識を向けて、良い気持ちになることに惹かれるようにしている。
最高に幸せなチャンネルに合わせたい
そもそも人の不幸が好きではない。これは自分自身のことも含めて。
自分にとっての幸せは、穏やかであることだ。
育児をしているとなかなかそうもいかないことが山積みだけれど、最終的には私は穏やかに過ごすのだ、と信じている。
心地よい風に吹かれ、草木の香りがあり、空は広く、日差しは穏やかである。
気に入った家財道具と画材と本と漫画と、遠くに見える海があれば、私は最高に幸せだ。
さぁ今日も、チャンネルを幸せに合わせよう。
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