自分が生まれた家族、自分が作っている家族。
どちらであっても、家族を平和に保つために重要ことをただ1つだけ、何かをあげるとすればそれは「笑うこと」だと思う。
でも、この笑うことって「1人じゃできない」って、心から伝えたい。
家族を平和に保つための「笑い」
私は、幼少期をほぼ機能不全だった家族で育ちました。
でも、全部が全部、機能不全だったわけではなくて、楽しかったこともありました。
また、この機能不全家族は、子どもの成長と共に少しずつ改善され丸く、穏やかになっていきました。
家族も成長することを私は身をもって学びました。
けれど、どうして私は機能不全な自分の生まれた家族を心の底から嫌って捨て去りたいと思わなかったのか?
それは、この家族に「笑う力」が残っていたからです。
全ては「笑い」に変えられていった
私が生まれ育った家族は、とにかく父の口が悪くて、家の中では父が仕事相手とケンカすることがしょっちゅうでした。
驚くような暴言(例えばヤ〇ザ映画でしか登場しないような言葉)が飛び交う家。しんどかったですね。
父のそうした性質を母はとても嫌っていて、また母も気が強かったので家の中で心落ち着くということを、私はあまり経験せずに育ちました。
でも、ネガティブ要素なことを、母は「笑いに変える」ことが上手な人でした。
経済的なことも、感情的なことも、父の突飛な言動も、日が経ち母の言葉にすれば、なぜかそれは「笑い話」になってしまうのです。
子ども達は母の言葉を受けて、話を膨らませ、お互い大笑いして終わる。
この母の「笑い化」のおかげで、子ども達は本当に本当の意味で、家族を沼にはまらせずに済んだし、救われました。
ただ、振り返ると、母の「笑い化」は一人でできたものではなくて、そこには母の言葉を受けて広げられる子ども達がいて、「笑い化」しても構わないという父の「在り方」も存在していました。
茶化せる母と、その話を更なる笑いにする子どもと、茶化されても構わない父。
こうした組み合わせだったから、リアルタイムでは家族みんながしんどくなるような出来事も、時が経てば笑い話にできたのだと思っています。
何よりここで重要なのは「笑いって一人じゃ起こせない」ということです。
「笑い」は一人じゃ起こせないことを痛切に感じた日々
自分自身が結婚する時、父から言われた言葉はただ一つ。
「笑いは大切」
でした。今はその言葉が痛いくらいよくわかります。
自分は機能不全ながら「笑い化」だけは頻繁に起こる家庭に育ったので、笑いって自然に生まれるものだと、思っていました。
でも、それは違った。
自分がどんなに努力をして笑いを起こしても、そこに化学反応を起こしてくれる人がいないと、笑いって池に投げた石のように沈んでいくだけだったのです。
もちろん、努力はしました。
少しでも楽しくできるように、なるように。暗いことも「笑いに変えられる」ように。
だけど、疲れた頃がありました。
「なんで自分だけ、笑いを起こす努力してるんだろう」って。
子どもが生まれてしばらくして、夫との間が冷えた頃、夫から言われた言葉がありました。
「二人で笑うことが減ったよね」
分かっていました。笑いが少なくなっていたことには。
でも、笑いを起こすって、結構エネルギーを使います。
子育てをしながら、なんで自分ばっかり、笑いを起こすことにまでエネルギーを使わなければいけないのか。
私には分からなくなっていました。
話しかけなければ会話にならないのに。こちらが「笑い化」を起こさなければ笑いが起こらないのに。
でも、夫はそのことに気づいていませんでした。
夫はもともと家事も育児も進んでこなす方でしたが、話すことを積極的にする人ではありませんでした。
子どもの予定すら、こちらが言わなければ知らない。子ども達が1日どう過ごしたのかも、聞いてこない。
この状態で「笑い」ってどう起こせばよかったのでしょうか?
受け身で「笑い」を待つ人は少し考えてほしい
私自身はお笑い芸人を職としていませんが、個人的に「笑いを生み出す」職業の人って本当にすごいと尊敬しています。
人を笑わせるって、本当に難しいこと。
でも、ある芸人さんが仰られていたのですが、やはり笑いは「お客さんと一緒に作るもの」でもあるそうです。
そう、笑わせてもらう側も、実は「受け身」でばかりいてはいけないのです。
笑いは自然と降ってわいてくるものでも、当然のように「自分を楽しませてもらうもの」でもありません。
相手の発したパスは「受けること」も大事。
そうでないと、どんなに面白いことを言ったところで、それは「池に沈む石」にしかなりません。
我が家に笑いがなくなっていた最大の理由はここでした。
私は夫を相手としたとき、夫の「笑わせてもらって当然」という意識に、疲れ果てていたのです。
フルで育児と仕事と生活の段取りをした私は、週末に帰宅する彼を笑わせる作業ができなくなっていました。
笑いの前に「会話」を
全く知らない芸人さんのネタで笑うこと、もちろんあります。
でも安心して笑えるのはよく知っている芸人さんの「お約束」ネタだったりします。
私は、家族内に起こす笑いって「お約束」ネタに近いと思っています。
でも、この「お約束ネタ」を使うには、それなりに「お互いにそのネタがわかっている」という前提が必要になります。
ということは、家庭に笑いを起こすにしても、必要なのはまず「前提」を作るための「会話」なのです。
一足飛びで「笑いがなくなった」というのは物事の順序が違います。
笑いがなくなったというのは、その前段階の「会話」が確実に減っていることを指すからです。
もし、その後再び「笑いのある家庭」を築いていきたいなら、まずは会話を始めることが先決。
「場が温まらない」のに笑いを起こすのは結構リスキー。笑わせる側も、笑う側も。
今、笑いが少なくなったことに寂しさを感じている人がいたら、最初は「挨拶」から始めて、最近の話題、一般的なネタ、そして前座、と徐々に進んでいきましょう。
まとめ
さて、笑いがなくなったと言われた我が家(というか私に対してですね)。
その後一体どのように、何をどうして、最終的にどうなったのかは、いずれ別記事で書こうと思っています。
また私が育った家庭において色々と大変だった存在の父ですが、彼の言った「笑いは大切」。これだけは本当にその通りだと感じています。
どうか、あなたの家族にも、笑いが戻ってきますように。
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