[ママ友不要論]ママ友ダンシャリズム|関係を断ち切るまで①

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私には「友だち」の定義がわかりません。

一緒にいて楽しければ友だち?

ツライことを分かち合えたら友だち?

何かを一緒に作り上げればいい?親に言えないことを語れたら?

これは「私に(子どもが同級生ってだけの)ママ友はいらない論」についての、具体的な、お話。

私の友だち関係

私は自分の生きてきた「年代・年代」で友だち付き合いが変わりました

今でも、小学生の頃に友だちだったあの子と会えば、思い出話に花が咲き、懐かしい気持ちになることは間違いないと思います。

もしその子が自分より早くこの世から旅立ったと聞けば、得も言われぬ寂しさに駆られると思います。

でも、だからと言って、大人になって再会したその子と「あの頃と同じ」付き合いができるか、と言われたら明確にNOと言えます。

だって、私は変わったから

そしてきっとあの子も変わったから。

こんな私にとって「ママ友」は、「子どもが同じ園や学校を共にする一瞬」すれ違う人、でしかありません。

重なった年代の中で助け合うことや繋がることがあっても、自分や家族を犠牲にしてまで、私は「ママ友」と繋がり合おうとは思っていません

今は。

1日は24時間しかないから

1日は、この地球上どこで過ごしても、ほぼどこでも24時間。

そのうちのどのくらいの時間を「楽しい」とか「幸せだ」とか、ポジティブな感情で過ごせているだろう?

ある関係がこじれた時、私はこのことを深く深く、日本海溝くらい深く考えました。

あなたの24時間はどうですか?楽しさ満開でしょうか。ならば本当に良いと思いますし、それが何より正しいと思います。

私にはまだ小学生の子が2人いるので、彼らとの生活の中で、叱ったり怒ったり、憤ったりイライラしたり…なんてことは日常茶飯事。

となれば、貴重な24時間は現在、相当な割合がネガティブ系の時間になることもあるのです。

これに加えて、イラっとするママ友との関係なんてのがあったら、本当に24時間がもったいない。

私は40歳を迎える前、あるママ友との関係がグチャグチャになったことをきっかけに、切実にそう実感しました。

私は人生におけるできるだけ多くの時間を、ポジティブな心で過ごしたい。

誰かに不要な気を遣ったり、顔色をうかがったりしながら過ごす時間なんて要らない。

そんな時間があるなら、子ども達やパートナーと有意義な時間を過ごしたい。

自分の生きたい道や本当に感じていたい感情を紐解くことで、自分が心から必要としているものに改めて気づきました。

だから、私の感情と時間と、自分が大切にしたいものをないがしろにする関係を、断ち切りました。

私が、私の人生に1ミリも必要ない、と思ったのは、とある「ママ友」関係。

ただ、私がこう完全に振り切るまでには「ママ友ってやっぱりいた方がいいよね」という(私にとっての)暗黒時代を通る必要がありましたが。

うん、この時代、本当に苦しかった。

親の関係=子どもの関係っておかしい

私の第1子は娘。第2子は息子。

基本的にマイペースな私は、娘が小さい頃、無理に「ママ友」を作る気はさらさらない日々を過ごしていました。

気が合う人があれば、知人になれればいいや、くらい。

でも、私のこの考えが、娘の友人関係を狭めてしまうのは(子の世界や可能性の幅を親が限定するのではないかという意味で)いけないな、とも思っていました。

だから、娘が幼稚園にあがってから、声をかけてくれた人と、私はまず知人になりました。

その知人Aさんは、フレンドリーだけれども相手への踏み込み方の上手な人でした。

ただ、そのAさんから広がっていった関係の中に、私は当初から違和感を抱く人がいました。

でも、その違和感に、私は気づかないふりをしました

彼女たちは「集まって遊ぶこと」が比較的好きな方たちだったので、よく声をかけてもらいました。

気にかけてもらう、というのはとてもとても、ありがたいことです。

でも、行動を共にするたびに「ジャリ」と感じる、あさりの砂を噛んだような違和感

なぜ、私はあの違和感と直観を、信じなかったのか。

それは、私が彼女たちの誘いを断ることで、自分の娘が嫌な思いをするのではないか、という不安が大きかったから。

だけど、これが何より間違いなのは、火を見るより明らかですよね。

だって娘は娘の気の合う子と、娘の世界を彼女自身の感性と世界観で広げていけばいいのだから。

親同士の仲の良さがそのまま子ども同士の仲の良さに反映される世界って冷静に考えればおかしな話です。

親の世界と、子どもの世界は、本来は全く異なるのに。

自分だけのことなら冷静になれることがそうじゃなくなる、そしてそれに気づかない。これがきっと「育児の盲点」なんだと、今の自分ならわかります。


とある事件

娘が小学校に入学した時、通学路のとあるお家に、飼い犬を庭で放し飼いにしているお家がありました。

ある日その犬が庭を抜け出し通行人を噛む、という事件起こりました。

噛まれてしまった人は大けが、ではないけれど、ある程度のケガを負ってしまいました。

しかし(被害者・加害者が同じ町内ということもあってか)双方の間で示談が成立。

と、ここまでは当事者同士のお話

私はこの話をその人たちと同じ町内に住む人から聞いたわけですが、その後。

私としては驚きなのですが、その犬はやはり、繋がれることなく庭で放し飼いをされていました(現在はこのお家の方は引越されています)。

通行人に対してよく吠えていたその犬が事件後、しつけのトレーニングを受けたのかそうでないのか、また予防接種がどうなのかなどそのお家の人と親しくない私は知る由もありません。

私にわかるのは、人を噛んだ犬が今も「抜け出せるかもしれない庭で放し飼いにされている」という事実だけ。

我が家から小学校に行く通学路はその家の前を通るルートと、時間にして5分ほど大回りになるけれど、別の方面から行く道がありました。

正規通学ルートは、犬のいるお家の前を通るルート。

でも、万が一、娘が犬に噛まれてしまったら?ケガを負うのは私ではなく娘です。

私自身は幼い頃から犬を飼っていたから、犬は好きです。

でも、昔々、放し飼いの犬に追いかけられた経験もあるので、どんな犬でも無条件に可愛い、とは思えません。怖さも知っています。

だから、もし避けられるなら娘が噛まれるかもしれないという不要なリスクは避けたい。

だから、通学路について学校へ相談に行こうと考えました。

このことによって、あの「違和感」が気づかないふりのできないほどのものとなって、目の前に現れることになったのです。

その後のお話、②はこちら

ママ友はこわい、けど抜け出せる

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