【おすすめ漫画紹介】「橡(いたいけな瞳 より)」【吉野朔美さん】

漫画紹介

今回の紹介作品は 吉野朔美さんの「いたいけな瞳」シリーズ内のお話。

小学館文庫版『いたいけな瞳』第2巻に掲載されている「橡(つるばみ)」です。

吉野朔美さんの作品は、精緻な描写が好きな方、作品の「余韻」を楽しみたい方におすすめ。

特に今回ご紹介する「橡」はナイフのようなプラトニックラブなお話が読みたい方におすすめかと思います。

プラトニックラブには、まさに「少年少女の恋」というような綿菓子のような恋と、その一線を越えられないからこその刺さるような恋、がある気がしますが「橡」はもちろん後者。

「今日は切ないお話が読みたい!!」という方にはうってつけでは。

「橡(つるばみ)」

今回取り上げている「橡(つるばみ)」は、「いたいけな瞳」シリーズの中の1つ。

「いたいけな瞳」というのはオムニバス形式の物語で構成されているシリーズで、物語の世界観が「どこかで」リンクしているものも多くあります。

作品が掲載されていた雑誌は『ぶ~け』。

「橡(つるばみ)」の初出は『ぶ~け』平成3年2月号です。

「橡(つるばみ)」の収められている小学館文庫版『いたいけな瞳』第2巻には、次の作品も収録されています。

・Give Me Shelter
・ささやかな不幸
・ローズ・フレークス
・本物の贋作
・月の桂

吉野朔美さんについては、Wikipediaでどうぞ。

旗にしてかかげてしまえば 上げ続ける不自由を……

「橡(つるばみ)」の主人公は「蜩 空(ひぐらし あける)」という少年です。

登場当時は中学3年生でした。

父の再婚で、彼には1つ年下の妹ができます。それが「橡(つるばみ)」の子、と書いて「橡子(しょうこ)」。

自分の意志を貫き、個性的で美しいその少女は「空」とは同じ中学で、校内で彼女を知らない者はいないという有名な少女です。

「橡子」は一見とても強そうな少女で、自分は誰より自由だと思っていますが、実はとても不器用で自分自身を持て余していることで不自由に縛られています。

その彼女が抱える不自由を端的に表しているのが、

「一見 自由に見える行為も 旗にしてかかげてしまえば 上げ続ける不自由を 自分に課すことになる」
『いたいけな瞳』第2巻 P38

という表現。

彼女は自分の心に真っ直ぐでしたが、その真っ直ぐさゆえに「異母兄に恋をした自分」を隠すことはできません。

「異母兄に恋する気持ちを隠さない」ことは、一見自由奔放な行為に思えます。

しかし、この気持ちを隠さず掲げ続けることは「掲げ続ける不自由」を橡子に課すことになっているのです。

この強烈なジレンマを内包しながら、物語は「空が実家で過ごす最後の日」に進みます。

空は大学進学を機に実家を出ることに。

最後の夜くらいということで、彼女は義兄の部屋(離れ)で一緒に寝ることを希望します。

義兄も橡子が自分のことを慕っていることは知っています。

ただふたりは最後まで、心身を交わすことはありません。

橡子が部屋に持ってきた沈丁花の香りが深く匂う部屋で、ただ2つ布団を並べて寝るだけです。

二人の間に置かれた沈丁花。

二人のいた部屋を満たしたであろう沈丁花の甘く、湿り気を帯びた香りは画面を通してこちらにまで届くような、そんな気がする場面です。

今の世の中に溢れている、目も当てられないような性描写のたくさんある漫画がいくつ束になっても、吉野さんが描く「人の根底にある耽美の心」には勝てない、そう思わしめる場面でもあると感じます。

そしてこうした清らかすぎるエロチシズムのようなものが、大人になってしまった自分にはもうどうしたって手の届かないものになっていると気づかされる絶望感たるや、清々しいほどです。

空が家を出た後、孤高の旗を掲げ続けた橡子がどのような変化を見せたのか、それはぜひ、ご自分の目で確かめていただきたいと思います。

「人間」が抱える共通項

女性にとって心身の成長というのは、自分の与り知らぬところで、大きな波のように自分を襲ってくる自然の脅威そのものです。

自然の脅威を前にすれば、自分が掲げていたちっぽけな旗は寄る辺なく飲み込まれるのみ。

こうした「自分と言うものが何をしても自然の摂理に敵わない」ことを女性が理解するのは、まだ気持ちの成長がついていかない時期。

橡子も自分自身の中に起こる大きな嵐に翻弄され、旗をなくし羽衣をなくしたことを、あの日、空の隣で眠りつつ考えたのではと思います。

吉野さんの作品は、世間を俯瞰して見ているというより、人の気持ちのとても繊細な部分を、上空12000mくらいの距離から俯瞰しているという感じがします。

精神に対する視力が大変優れているのだろうな。

同じ世界に暮らしていても、自分にとって善い人もいれば同じ言語を使うのに全く話がかみ合わない人もいる。

法で裁かれた人も法をかいくぐって逃走している人もいる。

でも、詰まるところ、私たちは「人間」という同種の生物でしかなく、奥底には何らかの「共通部分」を抱えています。

吉野さんはこうした「人間の心の奥に共通して存在するだろうヤワな部分」を刺激するのがとても上手な作家さんだと思います。

そしてこうした普段は晒せない人間の奥底のヤワな部分を白日に晒しながら、読んだ人に「世の中って矛盾だらけなんだよ」と軽やかに伝えてくれていると思えます。

ただ吉野さんの作品を読んでも最終的に絶望しないのは、この惑星が、人間の矛盾も善くない心も嫉妬も悲しみも、どんな感情をも全て織り込み済みで回っているということを、吉野さんが示し続けてくれているからと、今はそう思えます。

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